できるだけ明るく書くつもりのブログ
私には、触れてほしくない過去がいくつかあります。3つかそれぐらいあります。
しかし時として、それに安易と触れてくる人もいるわけです。
そういう時はやはり触れて欲しくなかったという残念感と、悲しさと、焦りとか鬱が同時に来ます
しかしそういう時、私は私を「人間の底辺、ゴミクズ」と自分で思うことで、
自分はそう言われても仕方がない人間なんだ、となんとか自己を保つことができています。
でもそんな考えばかりしていると、自殺しかねない。
軽々しく「自殺するぞ!」とは言っているが、冗談ではなく、何度も考えたことも、あったり
昨日の話、その触れてほしくない話題に触れてきた人、
そしてそれに便乗して来た人、
その人らとなんとなく会話をやりすごし、そして別れ、家で1人になる。
そこで1人になってからが、本当の辛さ。
というのも、私はどうしても何か言われたり何かされたりしたことについて原因を探るクセがあります。
「なんであの事を言われたんだろう」「なんであんなことされたんだろう」
「あの言葉の真意はなんだろう」「眼の焦点が合ってないってなんだろう」
「笑われてるのはバカにされてるんだろうか」「元からそういう目で見られていたんだろうか」
ささいな会話だけで、私は1人きりになるとそういう”勘ぐり”みたいなのが止まらなくなります。
そして悲しいことに、私の中でそういう勘ぐりが始まると大抵”良くない方向”に評価が進みます
が、思えばその人らは、「友達」です。
友達の定義には諸説あり、実際友達の定義ってなんだろうって言われるとまだ分かりませんし、
辞典に載ってる意味での「友達」も言葉の意味を表してるだけで、どこからが友達かとは書いていない
また、仮に私が一方的に「友達」だと思ってて、
相手が私を「知り合い」「赤の他人」「一般人」「金ヅル」「カス」「ゴミ」「犯罪者」「話したくない人」「見たくもない人」
と思われていたとしても、私は一度遊んだり同じ話題を共有した人を、友達と定義付けています。
で、そんな私の現在の心境と人生の経験則から考えると
友達とは
足かせである
←この足についてる鉄球
なぜかといえば、
友達が増えれば増えるほど、足に制限がかかる。自由に歩けなくなる。
それはつまり、精神的自由、肉体的自由に通ずる
友達がいなくなれば、つまり足かせが無くなれば、
どこへでも自由に、いつまでも行く事ができる。
友達という足かせがあることで、行動に制限がかかるということは、
あらゆる行動に責任や信頼や友情といったものが、のしかかる、ということ。
足かせがたくさんついてるほうがいいんですよね
人間は全員マゾなんでしょう。わざわざ自分に負担をかける。
私の足かせ、たぶんまだいくらか繋がっているんでしょうが、
クサリは全てボロボロな気がしますどうだろう。
小学生は「友達100人つくりたい」て
足ジャッラジャラですやん
私には、触れてほしくない過去がいくつかあります。3つかそれぐらいあります。
しかし時として、それに安易と触れてくる人もいるわけです。
そういう時はやはり触れて欲しくなかったという残念感と、悲しさと、焦りとか鬱が同時に来ます
しかしそういう時、私は私を「人間の底辺、ゴミクズ」と自分で思うことで、
自分はそう言われても仕方がない人間なんだ、となんとか自己を保つことができています。
でもそんな考えばかりしていると、自殺しかねない。
軽々しく「自殺するぞ!」とは言っているが、冗談ではなく、何度も考えたことも、あったり
昨日の話、その触れてほしくない話題に触れてきた人、
そしてそれに便乗して来た人、
その人らとなんとなく会話をやりすごし、そして別れ、家で1人になる。
そこで1人になってからが、本当の辛さ。
というのも、私はどうしても何か言われたり何かされたりしたことについて原因を探るクセがあります。
「なんであの事を言われたんだろう」「なんであんなことされたんだろう」
「あの言葉の真意はなんだろう」「眼の焦点が合ってないってなんだろう」
「笑われてるのはバカにされてるんだろうか」「元からそういう目で見られていたんだろうか」
ささいな会話だけで、私は1人きりになるとそういう”勘ぐり”みたいなのが止まらなくなります。
そして悲しいことに、私の中でそういう勘ぐりが始まると大抵”良くない方向”に評価が進みます
が、思えばその人らは、「友達」です。
友達の定義には諸説あり、実際友達の定義ってなんだろうって言われるとまだ分かりませんし、
辞典に載ってる意味での「友達」も言葉の意味を表してるだけで、どこからが友達かとは書いていない
また、仮に私が一方的に「友達」だと思ってて、
相手が私を「知り合い」「赤の他人」「一般人」「金ヅル」「カス」「ゴミ」「犯罪者」「話したくない人」「見たくもない人」
と思われていたとしても、私は一度遊んだり同じ話題を共有した人を、友達と定義付けています。
で、そんな私の現在の心境と人生の経験則から考えると
友達とは
足かせである

なぜかといえば、
友達が増えれば増えるほど、足に制限がかかる。自由に歩けなくなる。
それはつまり、精神的自由、肉体的自由に通ずる
友達がいなくなれば、つまり足かせが無くなれば、
どこへでも自由に、いつまでも行く事ができる。
友達という足かせがあることで、行動に制限がかかるということは、
あらゆる行動に責任や信頼や友情といったものが、のしかかる、ということ。
足かせがたくさんついてるほうがいいんですよね
人間は全員マゾなんでしょう。わざわざ自分に負担をかける。
私の足かせ、たぶんまだいくらか繋がっているんでしょうが、
クサリは全てボロボロな気がしますどうだろう。
小学生は「友達100人つくりたい」て
足ジャッラジャラですやん
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